私は反りたった壁の上に立っていた。とてつもなく高く、まるで崖のようだ。それでも私がこれを崖と形容しないのは、壁面が出来たてのようにまっさらで、窪み一つなかったから。壁も、高くてよく見えないけどその下にある地面も、硬そうな素材でできている。飛び降りたらきっと死ぬんだろうな、と思った。
私はときどき、屋上から飛び降りるとか遮断機の下りた踏切に飛び込むとか、そういうことをしてみたくなることがある。自殺願望があるとかそういうのではないけど、飛び降りたらどうなってしまうんだろう、自分はどんな気分になるんだろう。そんな興味が湧いてくるのだ。

見えにくい地面を目を凝らしてよく見ると、何かがぽつんと立っているのに気づく。

(……猫目…)

猫目宗助だった。けれどメガネをかけていない(ように見える)。風呂でもメガネを外さないというメガネ中毒者が、なぜ今それを外しているのか。

「…ああ、夢なんだ」

夢なのだろうか。思わず口をついて出た言葉だが、確信はない。けれどその言葉でこの見覚えのない風景も不自然な猫目の姿にもすべて説明がつく。安易すぎるほどに。 じっと見つめていると視線に気づいたのか、猫目がこちらを見上げた。途端、何か黒いものが四方八方から飛び出してくる。

「やめろ!何をするんだ!」

それらはわらわらと猫目にまとわりつき、体の自由を奪おうとする。あれはヌルキャリアだろうか、とするとこれは夢ではなく電脳の世界なのか。どちらでも構いやしないけど、あれに寄ってこられたらこっちも危険かもしれない。私はメガネにそこまで詳しくないからヌルに捕まってしまうとどうなるのか知らないけれど、猫目を見ている限りではあまりいいものではなさそうだ。――とそこまで考えて、ようやく自分の立ち位置を思い出した。いくらヌルだろうと所詮は人型なわけで、ここへ上がっては来れないはずだ。

「おい!どうにかして僕を助けろ!」

一安心したと思ったら、今度は猫目に呼ばれてしまった。しかし助けろと言われてもこの壁はどうしようもない。すると突然、中空から縄が降ってきた。なんという都合のいい世界だろう。早くしろ、という切羽詰まった猫目の声に縄を下ろすと、そこに奴の重みが加わる。

(……重い)

大の男を支えるというのはこれだけの負担がかかるものなのか。何か引っかけるものはないかと周りを見渡すと、さっきまではなかったのに、いつの間にか出っ張りというか港にあるような杭のようなものが出現している。都合のいい現象その二、であった。
そこに縄の先をくくりつけて下を見ると、猫目と一緒に大量のヌルが上ってきていた。猫目はそれを蹴り落とそうとしているが、なにぶん数が多すぎる。縄はそれほど強度があるわけでもないようで、ぎしぎしと今にも切れてしまいそうだった。