しなければならないこともしたいこともなかったので、セルティ・ストゥルルソンは読書で時間を潰していた。相変わらずどこで見てどこで理解しているのかは自分にさえよくわからなかったが、適当に本棚から選んだ学術書が自らの好奇心をまったく刺激しないことだけは理解し始めていた。
いい加減別の本に替えようか、と腰を上げかけたところで呼び鈴が鳴る。ぴんぽーん。この家を訪れる客で常識的観点からまともだといえる人間をセルティは見たことがなかった。自分の知り合いであればまだいいが、新羅の関係者ならうまく相手をすることができないかもしれない。わずかに憂鬱になりかけたが、見ず知らずの他人にそんな失礼なことを考えてはいけないのだと、非常識な外見でありながらそこらの一般人よりよほどまっとうな思考を持つデュラハンは、ないはずの頭を振りながら本を閉じた。

「……あの、すみません。ここ、岸谷新羅さんのお宅で間違いないでしょうか?」

ドアの外には健全そうな、高校生くらいの女の子が立っていた。髪はおそらく天然の黒で、服装だって一般から逸脱しないカジュアルなものだった。眉根を寄せて多少挙動不審気味に視線を泳がせているが、これくらいなら許容範囲だろう。新羅への客としては随分と普通すぎて珍しい。セルティには、この一見普通の女の子が闇医者に何の用なのか、すぐには考えつかなかった。

「確かにここには岸谷新羅が住んでいるが、生憎と今は外出中だ。ただし急ぎの用なら連絡するし、戻ってくるのを中で待っていても構わない」

まともそうな少女だったことに安心したせいか、セルティは愛想よく(と言っても彼女に顔はないし声も出なかった)PDAに打ち込んだ文章を見せる。眉間に皺を寄せたままの少女はヘルメットと画面を交互に見てから口を開いた。

「……それじゃあ、」

緊急の用件ではあるが長時間待てないこともないから先生が忙しいなら無理に急いで帰ってきていただかなくてもいい、ただできれば今日中に診ていただきたいので可能なら待たせてもらいたいと、あくまでへりくだった物言いで少女は話す。
セルティがメールを送信してから一時間も経たないうちに、新羅はセルティとの愛の巣兼自分の診療所でもあるマンションへと戻った。

「やけに早かったな」
「うん、なんとなくおもしろそうな気配がしたからね」

患者本人の前でそういうことを言うのはどうかとセルティが打ちかけたのを、待ち時間に出したお茶にも手を出さずだんまりだった、と名乗る少女が遮った。

「私、よくストレスとか胃に溜めちゃうタイプみたいで。別に虐められてるとかじゃないんですけど、学校でもよく腹痛を起こすし、しまいには胃潰瘍で入院てしまったこともあるんです」

訥々と少女は人生相談じみたことを語り始め、興味深そうなふりをしながらふむふむと新羅は相槌を打つ。適当に聞き流しているだけじゃないだろうか、とセルティは思った。

「あの、ネットで調べたんですけど、岸谷先生はなんていうか……ちょっと変わった人なんかをよく診ていらっしゃるんですよね?」
「うん、そうだよ」

ようやく本題に入りそうだと感じたのか、新羅は笑みを浮かべながらうきうきした調子で返事をする。少女はひどく真面目そうな口調だったのでさすがに不謹慎だとセルティはたしなめようと思い、ぎょっとした。いきなり少女がシャツを胸元までたくし上げたのだ。

「今度はちょっと違った感じに穴が開いちゃって……」

露わになった腹部を見て、セルティは今の自分に目があったら間違いなく頭蓋から飛び出しているだろうなと他人事のように考えた。少女の腹部――おそらく胃なのだろう、そこに言葉通りぽっかりと拳大の穴が開いている。かと言って臓器も血も垂れ流されてはいない。本当に“ただ”穴が開いているだけで、腹の向こうには窓とその向こうのベランダを覗き見ることができた。
続いた少女の言葉によると、昨晩から胃に鈍痛を感じていたと思ったら、今朝着替える時にはこうなっていたらしい。
曰く小心者の少女はこんな不可思議な現象を誰に話すこともできず、学校を休み、血眼でカウンセラーを探していたそうだ。きちんと胃を通過できるかもわからなかったので飲み食いすらしていないのだという。すごい忍耐力だねと新羅は笑顔のまま言った。

「――じゃあとりあえず解剖させてもらっていいかな?」

今度こそセルティが頭をはたくと、新羅はそのまま椅子から転がり落ちた。